所在地 | 恵那市明智町城山 |
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築城 | 16世紀中ごろ |
存続 | 16世紀中ごろ~近世初頭 |
比高 | 85m(陣屋から60m) |
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標高 | 528m |
主な城主 | 遠山明知氏 |
天文20年(1551年)の定林寺(土岐市)住持東嶺智旺書状に「明民城」とあるのが初見である。
「明民城」は「明知民部の城」の意で、民部は元亀3年(1572年)に上村合戦で戦死した遠山明知民部少輔景行であろう。
明知城とその周辺では、記録に残っているだけで4度の合戦が行われている。はじめは天文24年(弘治元・1555年)で、岩村衆は西三河の今川方と反今川方の対立で、反今川方に合力して出陣したが反撃され、今川方の阿摺衆に明知まで攻め込まれた。二度目は天正2年(1574年)正月の明知城の戦である。
本能寺の変後、森長可は東濃に侵攻し、明知城も遠山氏を逐って属城とした。天正12年(1584年)の小牧長久手の戦では、勃発後まもなく徳川方が森領への侵攻を開始し、明知城も攻撃の対象となった。これが三度目の合戦である。
このときの戦いについて「明知年譜」は4月17日に景行の子利景が落城させたとする。しかし、「讃岐遠山文書」によれば、景行の孫一行と舅の遠山佐渡守の手により、3月下旬には落城している。なお、小牧長久手の戦後、城は再び森氏の属城となった。
四度目の合戦は、慶長5年(1600年)の関が原の戦である。利景はその前哨戦で田丸直昌の属城となっていた明知城を攻略し、その功によって旧領6,500石を安堵された。
遠山氏は、元和元年(1615年)には、参勤交代を行う交代寄合格の旗本となった。
明知城が廃城となった時期ははっきりしないが、所領回復後まもなく陣屋が構えられ、徐々にその機能が移っていったものと考えられる。
城は、山頂に並ぶ東西二つの曲輪と通称「出丸」を中心として、周囲の尾根の全域に曲輪を配している。
登城路は、西側山麓の陣屋から主郭まで明瞭な導線があり、最終段階の大手道であると考えられる。
この城の一番の見所は、三つの主要な曲輪を囲繞する大規模な横堀・堀切とこれと連動する畝状堅堀群であろう。横堀と竪堀を組み合わせて防御する事例は、この地域でもいくつか見られるが、このように多数の竪堀と横堀を複雑に組み合わせて用いる事例は他に類例がない。
主郭の南に位置する通称「出丸」は、この城の性格を考える上で重要な曲輪である。一辺約30mの方形で主郭をしのぐ広さを持ち、三方は急峻な切岸で防御されている。虎口が開口する北辺には巨石列が配されている。また、曲輪内部には 「柱石」と呼ばれる中央に直径24cmほどの穿孔をうがった長辺120cmほどの石がある。手水石あるいは旗竿石であろう。これらは、この曲輪が特別な機能を有していたことを示唆している。例えば、元亀天正年間の坂井氏、一行・利景並立期の利景など、城主と並び立つ有力者の居館であった可能性がある。そのほかいろいろな想定が可能であろう。
横堀の外側にも主郭に匹敵する広さを持つ曲輪が複数存在する。これらの機能や横堀等との関係は様々な可能性が考えられるが、天正二年の飯羽間氏のように、番手として入城した周辺の領主・土豪が配置されたのかもしれない。
山麓の陣屋跡は近世旗本遠山氏の陣屋である。正面の水堀や背後を区画する土塁、馬場など遺構が良好に残り、代官村上氏屋敷等の建物も現存している。近世旗本陣屋の類例として大変貴重である。
規模・構造ともに美濃国を代表する山城といえるだろう。
明知鉄道明智駅から徒歩10分
【日本大正村 無料駐車場から本丸まで約30分】